May 17, 2010

aedをためらいなく使用してください。

aedがこのように公共の場所でインストールされるようになった理由は、ある高校生が倒れたときにaedがあれば、救命できる可能性が高いことが、親からの地方自治体への要求のためだと聞く。心肺停止のような深刻な患者を目の当たりにするとaedの使用は躊躇することがありますが、設置の意義を考える救急救命のために率先して使用している気持ちがあっても良いと思われる。
駅に立ち寄ってみると、ほとんどの駅にaedが搭載されているのを見ることができます。そのaedが置かれていることを覚えておくと、いざ人が倒れて、必要な場合、救急車が来る前に、aedガイトヌン場所まで走ってすることができますので、"ああ、ここにaed置かれている"と置いて位置を記憶するように心がけています。
 99年前の明治45(1912)年7月30日午前0時43分、明治天皇が59歳で崩御となった。公式にはそうされている。だが実際に天皇が亡くなられたのはそれより2時間前の29日午後10時43分のことである。

 近代になって初めての天皇崩御である。政府も多少、混乱していた。その日のうちに新しい天皇が践祚(せんそ)(継承)しなければ、皇位に空白が生じるとして時間を遅らせたのだ。

 そのあわただしさの中、30日午前1時には皇太子嘉仁親王が新天皇に就かれる。同時に元号がこの日から「大正」と改められた。つまり今年は「大正百年」にもあたるわけである。

 この日朝、「大帝」明治天皇の崩御ばかりでなく、一夜にして時代が「明治」から「大正」に変わったことを知らされ、国民は一様に強い衝撃を覚えた。

 夏目漱石や徳富蘆花ら多くの文人が明治への「哀悼」の思いを書き残した。陸軍大将、乃木希典は天皇の大喪の礼が行われた9月13日、夫人とともに「殉死」の道を選んだ。

 ◆「新しい時代」

 その一方で、多くの国民は「新しい時代」の息吹を感じ、たくましく受け入れ始めていた。当時の新聞を見ると、直後から商店や会社が「大正○○」などと名称を変更する広告が相次いでいる。庶民レベルでは早々に「大正ブーム」が起きていたのだ。

 そんな新時代の波は政治の世界にも間違いなく達していた。

 改元から約4カ月後の大正元年12月5日、西園寺公望内閣が倒れた。日露戦争後もロシアの脅威は変わらないとする陸軍が2個師団(当時1個師団は約1万2千人)の増設を要求した。財政難を理由に閣議がこれを否決すると、上原勇作陸相が辞任、陸軍側が後任の推薦を拒否したからである。

 曲折を経て12月21日、桂太郎の内閣が発足する。桂はそれまで2回にわたり首相をつとめた。在任は7年9カ月にも及んでいた。

 最初のときはロシアと戦う決断をし、日露戦争を勝利に導いた。ニコッと笑って肩をポンとたたき相手を丸め込むから「ニコポン宰相」の異名をとる老獪(ろうかい)な面も持ち合わせていた。安定感からはこの人しかいないとも思われた。

 だが「新時代」の国民の感覚は違っていた。明けて大正2年2月5日、当時日比谷にあった帝国議会議事堂を3千人の群衆が取り囲む事件が起きる。

 桂は長州(山口)出身の軍人で陸軍のドン、山県有朋の直系である。陸軍の言い分を通すための首相就任とみられた。事実、桂内閣は海軍大臣の任命などをめぐり、天皇の詔勅で押し切るなど強引な政局運営にあたる。

 退陣に追い込まれた形の西園寺をかつぐ政友会など政党は、内閣不信任案を提出して対抗した。政友会の尾崎行雄は有名な演説で桂を攻撃する。

 「玉座をもって胸壁(きょうへき)(とりで)となし、詔勅をもって弾丸に代えて政敵を倒さんとする…」

 尾崎らにあおられた群衆は政府に抗議して議事堂に押しかけたのだった。桂は議会を停止して中央突破しようとするが、10日になって群衆は暴徒化する。新聞社や交番が襲撃されるにいたり、桂もついに内閣を投げ出した。日本の政治史上初めて、民衆の力が政権を倒したのだった。

 元タイ大使の岡崎久彦氏は著書『幣原喜重郎とその時代』で、現代日本の民主主義についてこう書いている。

 「戦後の議会民主政治がなぜ、かくも安定して続いているのかということの大きな理由は、一つにはそれが日本人自身が自由民権運動の苦闘によって実現した大正デモクラシーの制度に根ざしているからである」

 ◆ポピュリズムも

 確かに大正という「新時代」を象徴するキーワードは、デモクラシーかもしれない。それが明治という時代を引き継いだ桂内閣にピリオドを打たせ、大正7年には原敬内閣という純然たる政党政権を出現させたといえよう。

 冷静に振り返れば、ロシアへの警戒を怠らず軍事力を強化すべきだとする陸軍や桂らの考えは「正論」だったと言えなくない。だが尾崎の演説に代表される一種のポピュリズム(大衆迎合)の前にはなすすべもなかった。

 現代に戻れば、一昨年夏の総選挙で民主党は、国民の強い支持を得て政権交代に成功した。その勢いは桂政権を倒した大正初期のデモクラシーを彷彿(ほうふつ)させた。

 だが政権獲得後は選挙目当てで米軍普天間飛行場移設問題を混乱に導き、日米関係を後退させた。バラまきと批判される政策は財政を一段と悪化させている。

 大正デモクラシーの流れは、ポピュリズムも道連れにして、現代日本にまで伏流していると、言えそうだ。(皿木喜久)

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Posted at 06:33 in Government | WriteBacks (0) | Edit
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